私が出会った大寅興行社の人たち

 監督 奥谷洋一郎

 

私が大寅興行社に出会った時、一座の人たちは7人で商売を行っていました。二代目親方の大野初太郎さんと彼の3人の姉妹たち、大寅興行社最後の太夫(芸人)であるお峰さんの家族3人でした。

 

大寅興行社は大野初太郎さんの父、大野寅次郎さんが戦前に興した一座で、彼の家族の他に様々な境遇の太夫や人夫が集っていて、他の一座にくらべ大所帯だったそうです。その当時、大寅興行社は見世物小屋より大きくサーカスより小さい規模だったそうで、当初は太夫や踊り子を使った「サーカスのレビュー」や様々な動物を使った「移動動物園」を興行物として手がけていたそうです。日中戦争や太平洋戦争が起こる前、お祭りに掛かる興行物は大衆娯楽として幅広く受け入れられていて、その興行物の一つとして見世物小屋がありました。大寅興行社は、初代の大野寅次郎さんが病に倒れ二代目の大野初太郎さんが跡を継ぐまで、初太郎さんの姉である大野裕子さんが代表代行をつとめていました。大寅興行社は女性が多く、数ある見世物小屋の中でもとりわけ華やかな一座だったそうです。

 

戦後、映画が勢いを取り戻しテレビが普及したことで見世物小屋のようなお祭りに足を運んでその一回性を楽しむ興行物は衰退していきました。そして見世物小屋の太夫として舞台に上がっていた、体に障害のある人たちは世論の後押しもあって国から取り締まられ舞台を去っていきました。太夫たちが舞台を去り見世物小屋自体がなくなっていく時代の流れのなかで他の一座と同様に大寅興行社も、学生や現地の若者をアルバイトに雇って興行することができるお化け屋敷や短時間で準備ができる簡易的な射的やピッチングゲームなどの興行に形態を変えて商売を続けてきました。

 

現在、大寅興行社の見世物小屋が見られるのは東京都新宿区歌舞伎町にある花園神社の酉の市かその他1、2カ所しかありません。また、現在単独で見世物小屋の興行ができるのは大寅興行社1社だけになってしまいました。それではなぜ大寅興行社が見世物小屋の興行をいままで続けてこられたのでしょうか。これは大寅興行社に限ったことではありませんが、見世物小屋一座の人たちは小屋を飾り立てる絵看板や小道具のことも演芸で使う動物のことも舞台に上がる太夫のことも等しく「荷物」と呼びます。つまり、すべての「荷物」が見世物小屋の興行を成り立たせるのに欠かすことのできない要素であり、その「荷物」はすべて一座の長である親方の持ち物である、という世界観に基づいているのだと私は解釈しています。そして、それらを預かる親方はその「荷物」にたいしてすべての責任を負う立場にあるのだと私は考えます。大寅興行社は現在でもそういう生き方やそういう商売のしかたを頑なに守っている一座です。2001年に初めて大寅興行社の一座に出会った時、私は何も知らない大学生で血縁をもとにした家族関係のことにしか考えが及びませんでした。大寅興行社では親方の家族と大寅興行社太夫の家族、犬や猿や大蛇などの動物が一緒になって暮らしています。商売の時だけではなく日常生活も一緒です。大寅興行社の一座のような「みせものやさん」という生業が作り出す家族形態は、いまは失われつつあるものだと感じています。それが、私の出会った大寅興行社です。